Azzedine Alaia

アズディン アライア

ブランドのはじまり

1980年アズディン アライアが自身の名を冠したブランドを設立。

アズディン アライアについて

アズディン アライア(Azzedine Alaia)は1940年ごろチュニジアのチュニスに小麦農家に生まれる。彼自身「一生懸命生きていたので生まれた年を忘れてしまった」とのこと。地元の美術学校の彫刻科に進み、彫刻を学ぶ。その後仕立屋で地元の人々のためにドレス(ディオール等のコピー商品)をつくりはじめる。

アズディン アライアはその後、クリスチャン ディオールで働くためにパリに向かう。(きっかけはチュニジアのクライアントの紹介)ラベルの縫いつけから始めるが、5日間でクビになる。(フランスへの正式な入国書類を持っていなかったことが原因の模様)

その後マザン伯爵夫人のお付として生計を立て、パリのギ ラロッシュの工房でオートクチュールの手法を学ぶ。1960年から5年間、ブレジュ家の伯爵夫人の仕立屋兼ハウスキーパーとして働き、その間にパリ社交界に人脈を作る。(このときに出会った人々が後に自身のブランドを立ち上げた際の重要顧客となる。)

1970年代、シャルル ジョルダンのもとでアライア初のコレクションを行うが、評価は決して高いものではなかった。このときのデザインは後に流行するボディコンシャスの先駆け的なものであるが、アライアのデザインは徐々にではあるが一部のファッション誌のエディターからモダンと認められ出していく。70年代後半はティエリー・ミュグレーのもとで働く。

1980年に独立。80年代のファッション界に一大ブームを巻き起こす。アライアのシグネチャースタイルとなるボディコンシャス・スーツは雑誌のエディター、アーティスト、モデルに絶大な支持を受ける。ボディコンシャス・スタイルは服に身体を押し込む事によってシルエット(ライン)をを形成する手法とは、まったく逆の発想で、女性のボディーラインを際立たせるためのアイテムと捉えるコンセプトのもと、余計な装飾を排除し、女性の身体の美しいラインを自然に強調するものであり、体に寸分もなくフィットした。スポーツウェアのような着心地で、女性の第二の「肌」と評価された。

この影響は日本にも渡り、ボディコン・スーツを身にまとった女性たちが急増、ジュリアナ東京、ボディコンという言葉に代表されるような現象を巻き起こした。

90年代に入ると、アライアはコレクションの参加をやめ、自宅兼工房で仕立てにこだわる顧客を選ぶ経営スタイルに切り替え、大量生産からも手を引いた。例外としてごく少数ながら熱狂的な支持者のためにバーニーズ ニューヨーク等のショップでも取り扱った。

世界に与えた影響が評価され、98年、オランダのフローニンゲン美術館で行われた展示会で、ピカソの作品と共にアライアの作品が並べられ、2000年、ニューヨークのグッゲンハイム美術館では、アライア回願展が開催された。

2000年アズディン アライアはプラダ・グループとの契約が決まり、オーナーであるペルテッリによるアライア財団の設立、アライアの名前を冠した美術館の設立、創作活動の全面的支援が決まったが、2007年、自社株を買い戻す。今後もプラダはアライアのシューズおよびレザーアクセサリーを生産する予定。

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